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 前事不忘 後事之師

第12回 魯粛― 大のために小を譲ることができた男

 杜甫の漢詩や范仲淹(はんちゅうえん)の「先憂後楽」の文章で有名な「岳陽楼」に登りました。当日は、天候は良くありませんでしたが、洞庭湖を一望する眺望に接して、漢詩や文章の題材に採りあげられる理由を納得しました。この岳陽楼の起源は、中国の三国時代に呉の国の軍師・政治家であった魯粛(ろしゅく)が洞庭湖で水軍を訓練する際に使用した閲兵台であったと言われています。

 三国時代の閲兵台であったと伝えられる「岳陽楼」(筆者撮影)

 魯粛という人物ですが、中国後漢末期、徐州最南端の東城県(現在の安徽省(あんきしょう)定遠県)の生まれで、家は金持ちだったと伝えられています。若い頃は、周囲の者から「穀潰(ごくつぶ)し」と言われていたそうです。のちに「赤壁の戦い」を勝利に導く周瑜(しゅうゆ)が評判を聞きつけ、部下の兵隊とともに魯粛を訪れ、兵糧を無心すると、米蔵の一つを指さして気前よくあげてしまったという逸話が残っています。

 後に周瑜の紹介で、魯粛は呉の孫権に仕えることになりますが、「赤壁の戦い」前夜においては、劉備やその軍師である諸葛孔明と同盟結成の交渉をするとともに、圧倒的な戦力で押し寄せてくる曹操軍を前にして、降伏論が多勢を占める呉の陣営の中で、周瑜の力を借りて、若い孫権を説得して徹底抗戦に向かわせる上で大きな役割を果たします。

 曹操軍と孫権・劉備連合軍の戦いの舞台となった長江沿岸の「赤壁」(筆者撮影)

 「赤壁の戦い」で曹操が敗れた結果、曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀という三つの国が鼎立(ていりつ)することになりますが、大局的に、これら三国の国力を比較すれば、当時の中国の中心部である華北周辺を握っている魏が圧倒的に優勢であり、呉や蜀は支配地域も限定されていました。従って、呉と蜀という二国は、互いに同盟関係を維持して強敵である魏にあたることが戦略的に必要でした。諸葛孔明が劉備の「三顧の礼」を受けて軍師に就いた際に、劉備に示した所謂「天下三分の計」も劉備と孫権が同盟して曹操にあたるという大局観に立った戦略です。

 しかしながら、他方で呉と蜀の間には、長江(揚子江)の中流に位置し、魏呉蜀の三国に隣接する荊州の支配を巡っての争いがありました。両国にとって、要衝の地である荊州の支配権を握ることは、とても大きな意義を有するのですが、両国がこの問題で争うことは、結局は両国にとっての強敵である魏を利することになります。従って、戦略的な大局観に立てば、両国は荊州問題で妥協する必要があったわけですが、このことをきちんと理解していた人物は、蜀では諸葛孔明、呉では魯粛だけでした。勇猛果敢な武将であった関羽、「赤壁の戦い」を勝利に導いた周瑜、そして劉備や孫権らには、この大局観が欠けていたように見えます。

 「赤壁の戦い」の2年後の210年に魯粛は荊州の要衝の一部地域を劉備に貸し与える妥協をすることにより、蜀との同盟関係を維持する選択をします。この時、この知らせを聞いた魏の曹操は、ちょうど手紙を書いていたところでしたが、驚きのあまり筆を落としたと伝えられています。

 前述したように、魯粛は、若い時に兵糧を無心にきた周瑜に気前よく米蔵をあげることにより、その後、周瑜の紹介で孫権に取りたてられることになりましたが、戦略的な価値が小なるものを捨てて、大なるものを確保することの重要性を理解していた数少ない人物であったと思います。

 その後、いろいろな紆余曲折はありますが、戦略的な大局観を有していた魯粛と孔明の二人が亡くなると、呉と蜀の両国の国運が傾いていくのも、後知恵かもしれませんが、当然のように思います。

鎌田 昭良(防衛省OB)

 

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