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 前事不忘 後事之師

第23回 マリア・テレジア ――逆境にあっても屈しない女

 18世紀半ば、オーストリア女大公として欧州に君臨したマリア・テレジア。母に似て、美人だったと伝えられている

 9月の終わりに、オーストリアのウィーンを訪れました。いくつかの博物館などを回っている間に、フランス革命で断頭台の露と消えたマリー・アントワネット(ルイ16世王妃)の母であるハプスブルグ家の女王マリア・テレジアに強い興味を持ちました。

 マリア・テレジアは、父親である神聖ローマ皇帝カール6世が男子を残さず薨(こう)去(きょ)したため、23歳の時にオーストリアの王位に即(つ)こうとしますが、周辺国から「王位には男性が即くべき」との異論が出て、オーストリア継承戦争(1740~48年)を戦うことになります。

 この戦いにおいて、もっとも侵略的な対応を採ったのは、後に「大帝」と称されるプロシアの若き国王フリードリヒ2世でした。カール6世の薨去の2カ月後には、ハプスブルグ家領であったシレジア地方(現在のポーランド南西部とチェコ北東部)に侵攻し、この地方を占領します。フリードリヒは啓蒙専制君主と言われ、また『反マキャベリ論』を著して、力による政治を否定した人物ですが、力でシレジアを奪い取ります。

 フリードリヒは、マリア・テレジアを何も知らない「小娘」だと見下したようですが、その後、これが大きな誤りであったことが判明します。父親時代からの臣下が「シレジアは諦(あきら)めざるを得ない」と進言する中で、マリア・テレジアはシレジア奪還の決意を固め、不(ふ)倶(ぐ)戴(たい)天(てん)の敵フリードリヒに対する反撃を開始します。

 マリア・テレジアが完成させたウィーンのシェーンブルン宮殿の前に立つ筆者

 マリア・テレジアは、女であると見下されたことへの強い反発を心に秘めながら、冷静に女の限界を把握し、自分の手足となって働いてくれる有能な男を積極的に登用するとともに、最優先の目標を実現するために、伝統的な方針も躊躇なく転換します。

 マリア・テレジアの面(めん)目(もく)躍(やく)如(じょ)たる場面は、自ら登用した宰相カウニッツの献策を入れ、シレジアを取り返すために、300年来敵対関係にあったフランスのブルボン家と同盟関係を構築し、これにロシアを加えた三国でプロシアを包囲する体制を作ったことです。

 しかもフランスへの同盟工作にあたり、フリードリヒから「王の寝室に出入りするあばずれ女」と侮辱され、フリードリヒを嫌悪していたフランス国王ルイ15世の愛妾(あいしょう)ポンパドゥール夫人を抱き込んだそうですから、その工作手腕も相当なものです。マリア・テレジアによるフランスとの同盟の画策の情報に接し、フリードリヒは驚愕・狼(ろう)狽(ばい)したと伝えられています。

 実際、オーストリア継承戦争の後に行われた七年戦争では、フリードリヒは敗北寸前まで追い詰められましたが、ロシアの女帝が崩御し、後を継いだロシア皇帝がフリードリヒの崇拝者だったことから、フリードリヒ包囲網の一角が崩れ、フリードリヒは息を吹き返し、マリア・テレジアのシレジア奪還の悲願は実現しませんでした。

 マリア・テレジアは、フリードリヒも舌を巻くほどの力量を持った女王でしたが、王妃を遠ざけてベルリンの宮殿で隠者のような生活を送ったフリードリヒとは異なり、夫との間に温かい家庭を作り、16人の子供に恵まれました。

 また、厳格で冷徹、隙のないフリードリヒとは異なり、マリア・テレジアは心温かく、母性的な包容力で国民に接したため、「国母」としても民衆に親しまれたと言われています。晩年、不倶戴天の敵であるフリードリヒに接近する息子との関係に悩まされたマリア・テレジアですが、彼女の人生を見ると、逆境にあっても屈しなければ、難敵に対して反撃できることを示しているように思います。

鎌田 昭良(防衛省OB、防衛基盤整備協会理事長)

 

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