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 前事不忘 後事之師

第34回 曹操高陵を訪ねて 
――「棺を蓋いて事定まる」と言われるが

 「曹操高陵」で発見された60歳台の男性の頭蓋骨。曹操のものとも推定されている(中国・河南省文物考古研究所編『曹操墓の真相』から)

 先月、中国を訪問し、三国時代に活躍した英雄、曹操(紀元155年~220年)の墓(曹操高陵)と見られる遺跡を見学してきました。場所は、河南省、かつての洛陽の都から北東約25キロに位置する安陽県西高穴村という農村です。

 「曹操高陵」の前に立つ筆者。高陵そのものはまだ公開されていない

 中国考古学会では、本当に曹操の墓であるかについて、未だ論争中ですが、中国三国時代研究における我が国第一人者である早稲田大学の渡邉義浩教授は、「本物」との判断です。

 曹操が亡くなった紀元220年から数十年後に、歴史家陳寿が編纂した正史『三国志』によれば、曹操は、自らの葬儀について「遺体を棺に収めるには平服を用い、金玉や珍宝をいれるな」という命令を出しました。

 合理的な曹操らしい命令ですが、発見された曹操の墓と見られる遺跡では、皇帝を葬る際に使われる金の糸で玉(翡翠)片をつづって作った衣で遺体を覆う「金縷玉衣(きんるぎょくい)」などの痕跡は見つからず、副葬品も質素でした。

 この遺跡における驚くべき発見の一つは、60歳台と見られる男性の頭蓋骨の一部が見つかったことです。曹操は66歳で亡くなっていますので、その頭蓋骨は、曹操のものである可能性が高いと研究者は言います。

 注目すべきは、その頭蓋骨がうち捨てられ、しかも意図的に破壊されたと見られることです。墓泥棒が、大した財宝が無かったことに怒ったのかもしれませんが、曹操に対する憎悪の表れだと主張する研究者もいます。

 『三国志』の編纂者陳寿は、曹操を「非常の人、超世の傑」であると高く評価しています。しかしながら、時代が下るにしたがい、曹操は"抜け目のない悪人"と位置づけられ、民衆が楽しむ中国劇では"白面"の奸臣とされ、現代中国には「説曹操、曹操就到(曹操のひそひそ話をすると、曹操が来る)」という諺があるくらいです。

 決定的だったのは、12世紀の南宋の大儒学者であり、朱子学の祖である朱熹(しゅき)が三国時代の正統な国家は、漢の再興をめざした蜀であるとし、蜀の宰相の諸葛孔明を高く評価し、他方で曹操を漢の簒奪(さんだつ)者だと見なしたことです。朱子学は儒教の正統な学となり、そのテキストが官吏登用試験である「科挙」に使われましたので、朱熹の評価は、大きな影響力を持ちました。

 朱熹が魏、呉、蜀の三つの国の中で、蜀を評価したのは、彼が属していた南宋という国家が北方の異民族である女真族の金に華北地方を奪われ、都を南の臨安(現杭州)に遷(うつ)さざるを得なかったという時代状況の中で、何とかして華北地方を奪還しようとしていた自国の姿をかつて三国時代に漢の復興をめざした蜀に重ねたためだと解釈されています。

 三国時代の歴史は面白いので、中国では人気があり、明の時代に民衆用の小説『三国志演義』が作られます。そこでは蜀の劉備の武将である関羽は究極の義の人(義絶)、諸葛孔明は究極の知恵者(智絶)として描かれ、他方、曹操は「奸絶」とされ、究極の悪人という評価が庶民に定着します。

 しかしながら、近代に入り、儒教など古来の伝統に批判的な動きの中で、文学者魯迅や革命家毛沢東は、逆に曹操を時代を切り開いた革新的な人物として高く評価します。

 曹操の評価の変遷を見ると、歴史的人物の評価は、評価する時代の状況、評価者の価値観によって大きく異なることがわかります。格言に「棺を蓋(おお)いて事定まる(死後、初めてその人の真価が決定する)」と言いますが、歴史に大きな足跡を残した人物の真価は死んだからといって定まるわけではなく、その後の時代の波に"翻弄"される運命です。人物の客観的な評価、特に絶対的評価などは、極めて難しいと思います。

鎌田 昭良(防衛省OB、防衛基盤整備協会理事長)

 

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