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 前事不忘 後事之師

第35回 官渡の戦い――勝敗を決めたものは

 (上)中国河南省鄭州市にある「官渡の戦い」の古戦場跡を訪れた筆者。左は曹操が馬をつないだ槐の碑(下)曹操の騎馬像

 1800年以上昔、その後の時代の流れを決めた激戦が行われた現場は、黄河の南、広大な畑の真ん中でした。

 9月に中国三国時代の「官渡(かんと)の戦い」の古戦場跡を訪れました。官渡の戦いは、紀元200年に曹操と袁紹(えんしょう)の二人が現在の河南省鄭州(ていしゅう)市中牟(ちゅうぼう)県の官渡で覇権を求めて争った戦いです。

 袁紹は、四世代にわたり後漢の最高官職を占めた名門の家柄の出身、他方の曹操は、有力な家系とはいえ、祖父は宦官(かんがん)でした。戦い直前の両者の勢力を比べると、袁紹は、肥沃な華北地方などを支配下に置き、10万を越える勢力で軍を進め、これに対し曹操の支配地は、戦乱で荒れ果てた河南地方などの一部地域、軍勢も1万人程度だったと伝えられています。勢力だけであれば、袁紹の力は圧倒的で、袁紹の優位は揺るがないと見られていましたが、結果は劣勢であった曹操が勝利を収め、その後の中国の覇権を握ることになります。

 歴史は、勝者の視点から描かれるのが常ですので、官渡の戦いで、何が勝敗を決めたのか公平に分析することは、今となっては難しいことですが、定説は、袁紹の優柔不断と袁紹の部下の寝返りを決定的要因としています。いずれも袁紹の失策です。

 戦いにおいては、より多くのミスをした方が負けると言われます。官渡の戦いにおいても、袁紹の失策を曹操が上手く突いて劣勢をはね返し、逆転勝利しました。他方で、戦いの後半に生起した両陣営の陣地戦においては、兵糧不足などから、曹操も弱気になり根拠地への撤退を考えますが、根拠地で留守を預かる名参謀の荀彧(じゅんいく)に押しとどめられた上での紙一重の勝利でした。

 この紙一重の勝利を生み出したものは何であったのでしょうか? それは、不利な状況下においても、主導権を確立しようとする曹操の積極果敢な姿勢にあったように私は思います。戦いの前半戦である「白馬の戦い」において、曹操軍は、戦力の劣勢を克服するため、黄河を挟んで陽動作戦と運動戦を主導的に展開することにより、優勢な袁紹の軍勢を分断し、袁紹軍に痛打を与えます。

 また、袁紹を裏切って曹操側に寝返った人物は、袁紹側の兵糧基地の場所を教え、そこを攻撃するよう進言します。曹操の参謀の何人かは「進言は、袁紹側の罠だ」と説きましたが、曹操は、自ら精鋭を率いて敵の兵糧基地の襲撃を行い、これが戦局逆転の要となります。

 孫子の兵法の虚実篇に「人を致して、人に致されず」(敵を思い通りに動かして、敵の思い通りには動かされない)という言葉がありますが、孫子に注を付すほど孫子に精通していた曹操は、戦いにおいて「主導権を確立すること」の重要性を理解し、ここ一番に際して、危険を顧みずに積極果敢に撃って出たのだと思います。

 曹操という人物は「官渡の戦い」にかぎらず、数多くの苦難に直面するとともに、大きな失敗や敗戦も経験します。そうした苦難の状況においても、それを乗り越えていこうとする思い、志の高さがこの人物の大きな特徴であり、それこそがその後の新しい時代を切り拓く曹操の革新性の源であったように感じます。詩人でもあった曹操は、老年にさしかかった頃に、「歩出夏門行」という漢詩を作ります。この漢詩の中に「老驥(き)伏櫪(れき) 志在千里」(年老いた名馬は、馬屋に伏していても、なお千里を走ることを思う)という有名な一節がありますが、これもそうした曹操の人生観を伝えるものです。

 私のような元小役人と曹操のような英雄とは比ぶべきもありませんが、役所の小さな所掌に閉じこもり、上司の意向を忖度(そんたく)しながら仕事をするのではなく、「国民のため」という高い志を持って業務にあたっていたなら、現役時代にもっと良い仕事ができたのではないかと、今更ながらですが反省しています。

鎌田 昭良(防衛省OB、防衛基盤整備協会理事長)

 

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