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 前事不忘 後事之師

第37回 伊藤博文から学ぶこと

 明治国家建設を担った伊藤博文

 昨年は、明治維新から150年という節目だったことから、NHKの大河ドラマで西郷さんが主人公になるなど、明治という時代が取り上げられました。西郷隆盛をはじめとして、明治に活躍し、その後の日本の針路に大きな影響を与えた人物は何人かいますが、明治国家の具体的な設計図を書き、それに基づき国家建設を行った人物は伊藤博文(1841~1909年)だと思います。

 伊藤は、紙幣に顔が印刷されているので、有名人ですが、残念ながら、その人気と評価は、功績に比べ高くありません。しかしながら、伊藤の生涯を子細に見ると、彼ほど将来を見つめながら国のあり様を真剣に考え、多くの仕事をした人物はいないと思います。実際、明治天皇は、大きな問題が生ずると、必ず伊藤を召して、彼の意見を徴したと言われています。

 伊藤博文の政治的なキャリアを追っていくと、いくつかの点において学ぶべきことがあると私は感じます。第一は、彼が様々な経験や修羅場(しゅらば)をくぐり抜ける中で、時には大きな失敗をしながら、〝脱皮・成長〟していったことです。青年時代の伊藤は、今でいうテロリストでした。幕末の攘夷運動の中で、イギリス公使館の焼き打ちに加わり、また国学者の塙次郎を斬殺しています。歴代の総理大臣経験者の中で、戦争以外で殺人を犯した数少ない人物です。

 しかしながら、彼はその後、明治4年の岩倉使節団の派遣以前に、密航も含めて二度、英国と米国に渡り、攘夷運動が不可なることに気づきます。その結果、開国して近代化を推進する考えに大転回します。後年の1891年に、ロシアの皇太子ニコライが日本旅行中に巡査に切りつけられる大津事件が発生します。明治天皇や時の政府首脳は、この事件の発生に驚愕し、どのような対応をすべきか苦慮しました。陸奥宗光農商相などの一部閣僚は、切りつけた巡査を暗殺して病死と発表したらどうかと進言しましたが、伊藤は、法治国を作る自分たちリーダーがそれを運用する道徳を失ったら真の法治国などできないと暗殺に強く反発したと言われています。伊藤は、血気盛んな攘夷運動家から責任ある国のリーダーへ大きな変身・脱皮を遂げていました。

 伊藤から学ぶべき第二の事柄は、彼は高い理想を持ちながらも、それを実際に実現する手段を常に考えていたことです。単なる理想主義者と異なり、今は理想の実現が難しいのであれば、敵対勢力とも妥協して、時間をかけて目標を達成することが重要であることを知っていました。伊藤は言います。「初より大計画を立て損失を招くが如きは不可」「当初は小計画を立てて漸次に之を発達せしむ」と。

 また、伊藤は、大日本帝国憲法の制定の中心にいた人物ですが、憲法という制度さえ作れば、立憲主義が機能するとは考えていませんでした。制度をきちんと「運用」することが重要であり、そのためには、政党の育成、国民の政治的な成熟が不可欠であることを知っていました。このため、他の藩閥政治家から裏切りと批判される中で自ら政党を立ち上げ、また国民の教育に尽力しました。このことも彼が理想主義と現実主義を兼ね備えた政治家だったことを示しています。

 大日本帝国憲法に規定された「統帥権」がその後、軍の独走を招いたと歴史学者は断じます。このため、憲法制定を主導した伊藤は、その責任を負わされているように思います。しかしながら、彼は、「公式令」を制定し、全ての法律及び勅令に総理大臣の副署を必要とさせることにより、軍を総理大臣のコントロール下に置くように試みます。この試みは、軍の利益代表者だった山県有朋らによって阻止されますが、仮に伊藤が1909年ハルビンで暗殺されずに、より長生きして影響力を持っていたら、その後の歴史は相当に変わっていただろうと私は考えます。

鎌田 昭良(防衛省OB、防衛基盤整備協会理事長)

 

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