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 前事不忘 後事之師

第38回 2・26事件に思う ――襲撃事件が変えたもの

 渡辺和子さんの著書『「ひと」として大切なこと』(PHP刊)

 今から83年前の2月、雪の降る東京の中枢で国を揺るがす大事件が起きました。約20名の陸軍青年将校に率いられた歩兵部隊1400名余りが総理大臣を始めとする政府要人を襲うという、後世「2・26事件」と称される軍事クーデターです。

 事件を主導した青年将校は、天皇親政による昭和維新をめざして決起したのですが、昭和天皇の理解は得られず、逆に陛下の憤りをかうことになり、クーデターは失敗します。

 この事件は、その後の日本の行く末を変えたと言われますが、一人の女性の人生も変えました。その女性とは、事件で、襲撃の対象となった当時の陸軍の最高幹部の一人、渡辺錠太郎教育総監(陸軍大将)の娘、渡辺和子さんです。

 陸軍第三歩兵連隊の2人の少尉に率いられた20名ほどの兵隊は、斎藤実内大臣を殺害の後、事件当日の午前6時頃、東京の荻窪の渡辺総監邸に襲撃に向かいます。襲撃現場には当時9歳であった和子さんが居合わせました。襲撃した兵たちは、居間のふすまを細く開いて軽機関銃で渡辺総監の足を撃ち、総監の血や肉片が壁や天井に飛び散ったと和子さんは後年語っています。9歳の少女が父親の悲惨な殺害現場に遭遇する、想像するだけでも胸が締め付けられますが、筆舌に尽くせない辛い経験だったと思います。

 渡辺さんは、10代の終わりにカトリックの洗礼を受けます。友人から「あなたは鬼みたい」と言われたことがきっかけだったそうですが、9歳の時の体験が関係していたのだろうと想像します。その後、30歳間際で修道院に入り、36歳の時にノートルダム清心女子大学の学長に就任されましたが、奇しくも2・26事件の80年目に当たる2016年12月30日に満89歳で帰天されました。

 渡辺さんは存命中に、「2・26事件は、私にとって赦しの対象から外れています」と述べていますが、著書である『「ひと」として大切なこと』という本の中で、概要こんなことを書いています。

 「ある時、2・26事件に関するテレビ収録に呼ばれました。その際、思いがけなく父を殺した側の人も呼ばれて来ていました。一緒に好きなコーヒーを飲む羽目になりましたが、一口も飲むことはできませんでした。自分は、感情的、生理的には、その人は嫌いです。そばにも寄りたくないし、もう二度と会いたくもありません。しかしながら、その人を憎んでいますかと聞かれたら、いいえ憎んでいません、愛していますと言うだろうと思います。今はもう80ぐらいになっておられるその方が老後を幸せに過ごしていただきたいと思うし、その方が不幸になったらいいと願わないことがぎりぎりのところで愛しているということです。愛するということはやさしいことではありません」

 この部分を読んだ時、この人は、偽善や虚飾を越えて自分の心の真実と真剣に向き合っている強い人だと感じ、私は、圧倒されました。

 渡辺さんは、インタビューの中で、現代の若者に「本を読んで人間性というものの尊さが分かるようになって欲しい、本来の人間の弱さと強さ、情けと温かさを知って、日本人らしさを取り戻して欲しい」とアドバイスを送っています。渡辺さんは著書の中で、他人の意見や世間に流されずに、自分の信念に基づき行動することが大事だとも述べています。

 2・26事件を主導した青年将校も、ある意味では自分たちが正しいと信じて行動したのかもしれませんが、彼らに決定的に欠けていたのは、渡辺さんが大事だと言う「人間性の尊さ」についての理解であったように思います。

 防衛省・自衛隊の教育において、統率、戦術、戦略、各職種に求められる技量といった実用的知識を教えることはもちろん重要ですが、渡辺さんが指摘しているような人間の本質、その強さや弱さについての教育は絶対に忘れてはならないと私は考えます。

鎌田 昭良(防衛省OB、防衛基盤整備協会理事長)

 

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