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 前事不忘 後事之師

第41回 児玉源太郎 ――近代日本の命運を背負った男

 対露戦をにらみ「2階級降格」を自ら選び、参謀本部次長として日露戦争を指揮した児玉源太郎

 司馬遼太郎著『坂の上の雲』(文春文庫)


 一国は一人を以て興り、一人を以て滅ぶ。

 明治・大正・昭和に活躍した軍人の中で誰が一番好きかと問われれば、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』にも登場する児玉源太郎と答えます。明治という時代において、誕生したばかりの近代国家の命運を軍事面において、全力で支え、走り去っていった〝爽快な人物〟だったと思います。

 児玉の爽快さが後世にも語りつがれる有名な事件は、日本の国運がかかった日露戦争の前年に起きました。ロシアとの戦争を想定し、その戦略を練っていた田村怡与造(いよぞう)参謀本部次長が突然、逝去します。田村は、「今信玄」と称されるほどの有能な軍略家だったことから、その急逝は、時の軍部と政府に大きな動揺を与えます。

 児玉は当時、陸軍大臣を経験し、内務大臣兼台湾総督でしたが、ある時、官邸に桂太郎首相を訪ねた際に、桂から「後任参謀次長に適任者がいなくなって弱っている」と聞かされました。それを聞いた児玉は、「それじゃあ、吾輩が蝦蟇坊(がまぼう)(大山巌参謀総長のあだ名)のための次長になってもいいです」と言ったと伝えられています。

 当時の内務大臣兼台湾総督は、政府の副総理格であり、副総理格の児玉が「2階級降格」と言える参謀本部次長に就任します。この時、参謀本部総務部長であった井口省吾少将は、「児玉男爵、内務大臣を去って参謀本部次長の職に就かるるに会す。もって天の未だ我が帝国を棄てざるを知る」と日記に書きました。

 児玉の参謀本部次長就任で、暗かった参謀本部が明るくなり、部員の士気が一挙に高揚したと言われています。「国家の命運が掛かっているなら、自分のことなどどうでも良い」――。この私心の無い気概こそが、児玉を特徴つけた性格でした。

 児玉はその後、日露戦役を前線の満州軍総参謀長として戦い抜きながらも、日本の国力の限界を踏まえて、ロシアとの早期講和を指導します。しかしながら、その後の日本にとって、最大の不幸なことに、日露戦争終結の翌年、ロシアとの戦いを背負ったこの男は、54歳の若さで亡くなります。

 児玉源太郎という不出生の人物の生涯を見る時、この人物の本質は、プロフェッショナルな陸軍軍人であったと私は思います。弱冠16歳で戊辰戦争に参加し、その後、佐賀の乱、神風連の乱の鎮圧にも加わり、西南戦争でも奮戦しました。戦火をくぐり抜ける中で鍛え上げられた人物でした。

 他方で、児玉はこうした戦役の中で育った人物にありがちな頑なな軍事一辺倒の人間ではなく、柔軟な幅広い発想の持ち主でした。彼は幼少期に、出身である徳山藩内の政争に巻き込まれて父と義兄を亡くし、家名断絶という辛酸を味わいましたので、終生、国論を分裂させる政治的な動きには距離を置きました。

 このため、民衆を煽り立てるような政党政治にも否定的で、「陸軍の政治的な関与は極小化すべきで、陸軍はプロフェッショナルな集団でなければならない」と考えていました。

 また、児玉は立憲制度の首相の下で、政略と軍略を統合できる体制を確立することが重要であり、参謀総長の帷幄上奏(いあくじょうそう)権の大幅な縮小や参謀本部の権限を純粋な作戦・用兵事項に局限することなどを目指しました。児玉の評伝を書いた小林道彦氏は、彼は帝国陸軍史上「空前絶後の立憲主義的軍人」であったと述べています。

 児玉が早逝したこともあり、その後、児玉の考えは軍の中では主流とはならず、むしろ逆に展開していくことになります。総力戦を戦う必要性から軍の政治関与が進むとともに、所謂(いわゆる)「統帥権」が肥大化、児玉が危惧していた軍略により政略が決められるという事態に陥り、結局、我が国は国策を誤ることになりました。

 歴史の「if」ですが、もし児玉があと10年長生きしていたら、その後の日本は、どうなっていたのかと思わず想像してしまいます。中国に「一国は一人を以て興り、一人を以て滅ぶ」という格言がありますが、児玉源太郎という軍人の生涯を見る時、本当にその通りだと思います。

鎌田 昭良(防衛省OB、防衛基盤整備協会理事長)

 

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