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 前事不忘 後事之師

第49回 「文七元結」――利害を捨てて心を伐つ

 立川談春師匠の落語「文七元結」のポスター

 先般、『文七(ぶんしち)元結(もっとい)』という落語の名作を聞く機会がありました。落語家の話術の巧みさに加えて、ストーリーの良さに心をうたれました。概要はこうです。

 左官の長兵衛は、腕は立つが無類の博打(ばくち)好き、負けがこんで大きな借金を抱えこみ、常に夫婦喧嘩で家庭不和。年の瀬のある日、娘のお久がいなくなり、探すと吉原の女郎屋に身を寄せたと判明。女郎屋の女将(おかみ)から話を聞くと、娘は父に改心してもらいたい一心で、自分を女郎屋に身売りし金を工面して欲しいと頼んだとのこと。女郎屋の女将は、翌年の大晦日までに返せば娘は女郎にしないとの約束で、長兵衛に五十両の金を渡す。

 女郎屋から帰る道すがら、吾妻橋にさしかかると、橋から身投げしようとする男にでくわす。訳(わけ)を聞くと、鼈甲(べっこう)問屋の奉公人の文七で、集金した五十両の大金をすられたので、死んでお詫びをすると言う。「死ぬ」、「死んではダメだ」との押し問答の後、長兵衛は、娘が身売りして五十両を工面した事情を話し、「娘が俺のために身を売って作った金だが、娘は仮に女郎となっても死なねえが、お前は金がなきゃ死ぬ、だから持ってけ」と叫んで、文七に五十両を押し付けて走り去る。

 文七は、店に帰り五十両を出すと、鼈甲問屋の主人は首をかしげる。実は金はすられたのではなく、文七が忘れただけで、もう店に届いている。文七は事のテン末を白状すると、主人は心底感心する。

 翌日、主人は何やら段取りを済ませた上で、文七を連れて長兵衛を訪れる。長兵衛に五十両を返そうとするが、長兵衛は「江戸っ子が一度やった金を受け取れるか」と啖呵(たんか)を切って受け取りを拒否。もめた挙句に長兵衛はようやく受け取る。

 主人は長兵衛に、今回のことを縁として文七を養子にするとともに、自分と親戚付き合いをして貰(もら)いたいと提案。その祝いの盃を交わしながら、「酒の肴(さかな)です」と呼び入れたのが、主人が女郎屋から身請けし、着飾らせた長兵衛の娘のお久。後に文七とお久は夫婦になり、「元結屋」を開き、これが大繁盛…。

 人情噺の傑作に下手な解説を付すことに気がひけますが、この落語の要点は、自らが困っているのに、自分の損得は考えずに、見ず知らずの他人に大事な物をくれてやる、すると図らずもその行為が評価されて、ご褒美が得られるというものです。そのように要点を整理したら、長兵衛の行動は、中国の「孫子の兵法」が説く主張と180度異なることに気づきました。落語は、庶民のための芸能で、他方は兵法です。荒唐無稽ですが、敢えて両者を比較してみました。

 「孫子の兵法」の重要なキーワードは、「利」です。「孫子」冒頭の計篇の有名な「五事七計」は利害の計算ですし、火攻篇には「利に合えば而(すなわ)ち動き、利に合わざれば而ち止む」という言葉があります。要するに味方と敵の間で厳密な利害比較をし、自分の方が有利であれば戦い、不利であれば戦うべきでない、そうすれば負けないと説くリアリズムの主張です。

 一方の長兵衛の行動は真逆で、自分の利害などは考えずに、小気味よいのですが常識破りです。

 どちらを選ぶかと言えば、常識人なら「孫子」でしょうし、対象が個人的な事柄ではなく、国家の安全保障に係るような事柄であれば、"時には清水の舞台から飛び降りることも必要"と為政者が言うようなことはご免こうむりたいです。

 しかしながら、格言に「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」と言いますし、フィクションですが、落語では長兵衛の行動は鼈甲屋の主人を感心させ、ご褒美を得ることになります。幕末の思想家、吉田松陰は長州藩の兵学師範であり14歳の時に藩主の前で「孫子」を講義するほど幼少期から「孫子」を勉強していました。

 他方で、松陰の最期は、自らの利害などは考慮せず、志に従ったものでした。この松陰の生きざまが松下村塾の塾生たちの心に火をつけ、討幕・明治維新に向かう革命の原動力になりました。何やら長兵衛の生きざまに似ているようにも思います。

 「孫子」が説くように、戦いは通常は損得勘定に長けた方が有利ですが、自らの利害を捨て、人の心を伐(う)つことができれば、状況は変わってきます。敵や味方の心を伐つことで、勝敗や歴史が時には動くこともあるように思います。

鎌田 昭良(防衛省OB、防衛基盤整備協会理事長)

 

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